父、正確に言えば「岳父」林四郎は、本が好きだった。本好きにもいろいろあって、もちろん読書が好きな人もあれば、本の装丁やその香りがたまらなくいとおしい人もいる。父は、どちらかと言うと、神田の古本屋街などで、とくにあてもなく、店頭の特価棚を冷やかしたり、時々店内に入っては、1,2冊手に取って見るのが好きだったようだ。ただ、もともと国文学が専門(東京帝大の卒業論文は、『万葉集』の「み」について)で、のちに国語学、国語教育、言語学に仕事の中心が移っていったため、蔵書は国文学、国語学、言語学が多かったが、謡や俗曲、聖書関係(これは、彼が戦後に新約聖書の現代語訳作業に加わったため)に至るまで、ざっと数万冊が収蔵されていた。その意味では、まっとうな本好きであったとも言えよう。何しろ、去る2011年3月11日の東北大震災の当日、やはり神田神保町の古書店の店頭を歩いていたのだが、あわてず騒がず、そこから都バスに乗って、高田馬場にもどり、まっすぐ歩いて帰宅した。彼は、一昨年3月4日に、100歳で他界したのだが、その大震災の日は、なんと89歳であった。その高齢の老人が、小さな布バッグを下げ、何食わぬ顔してバスに乗り、足早に帰宅した姿を想像してほしい。かれこれ、1時間ほどで帰宅したのだが、その夜、電話で地震の被害がないか、様子を尋ねると、
――ははっ、はあー。(笑)大丈夫、大丈夫。ちゃんと歩いて帰ってきたから。
と、元気な笑い声が返ってきた。家の中では、人形や陶器などがいくつか倒れたようだが、そんなことは全く意に介していないようだった。
蔵書点綴 第1回
【はじめにー泰北山房のことなど】
松岡 榮志
長年連れ添った岳母は、その数年前に亡くなって、広い屋敷に一人暮らし。文字通り、本に囲まれて生活していた。1階の奥には、書庫があり、鉄の書架が天井まで届き、江戸や明治期の全集、和本がうず高く積み重ねられていた。この部屋は日当たりの悪い、北西の向きにあり、はるか昔には、早稲田の風巻景次郎氏の息子が下宿していたそうだが、書庫に改装してからは、ほとんど足を踏み入れる人もなく、時々ガラス窓の隙間から野良ネコが入り、出られなくなって死んでいたりした。2階には、後に書斎兼図書室ができ、大きな英国風の両袖デスクがおかれたが、何しろ本人はリビングの大きな食卓の端に専用チェアを置き、日向ぼっこしながら原稿を書くのが好きで、両袖デスクには書類が積み重なり、ホコリがたまっていた。
その部屋にも、明治期の教科書(これは、その父林季樹氏の旧蔵書)や、中国の線装本、外国語の辞典類、『和漢三才図絵』(江戸期、木版本)など、様々な書物が棚にぎっしり詰まっていた。中国関係のものは、1975年から3年間北京日本学研究センターの日本側主任教授(筑波大学教授退官後、明海大学に赴任前)として北京に夫婦で滞在した時に、あちこちで買い込んだもの。岳母が、製本術に凝っていて、帙がこわれると、これ幸いに手間を惜しまず補修していた。彼女は、和本のみならず西洋の革製本にも造詣が深く、なめし皮や材料を山ほど仕入れていた。それらは、台所の奥の彼女専用の部屋の上の棚に積み重ねられていたが、晩年にはほとんど使われず、かびて硬くなってしまい、旧宅の取り壊しの際に、捨てざるを得なかった。
さて、その父の書斎には、もともと特別な名前はなかったのだが、ある時私が思いついて、「泰北山房」と名付けた。屋敷の南側の庭には、泰山木とヒマラヤ杉、桜の樹が塀の上の電線の上まで伸びていて、泰山木は初夏になると、大きな白い花をつけた。その甘い香りが何とも言えず素敵で、そこから書斎の名をとったのだ。父や母もたいそう気に入って、ある時、その入り口に「泰北山房」の名札がかけられた。「山房」としたのは、父が若い頃から夏目漱石(とくに「夢十夜」)をとても気に入っており、漱石に関する著述もいくつかあったので、「漱石山房」から「山房」をいただくことにしたのだ。
その幾多の蔵書も、父の他界、旧宅の建て替えとともに、ほとんど整理されることなく、この書斎から去って行った。少数のものは、古書専門の競売にかかったが、多くはビニールひもでくくられ、トラックで運ばれていった。今、手元に残るのは、父自身の著作類、それから最後に目に留まったもの(段ボールで10箱くらい)にすぎない。
その僅かに残された旧蔵書のなかから、いくつか目に留まったものを少しずつ紹介していくことにする。それは、書誌学でも文献学の記述でもなく、父母の思い出の断片的なよすがにすぎないが、ご覧下さるみなさまの心に少しでも触れんことを祈っています。
その部屋にも、明治期の教科書(これは、その父林季樹氏の旧蔵書)や、中国の線装本、外国語の辞典類、『和漢三才図絵』(江戸期、木版本)など、様々な書物が棚にぎっしり詰まっていた。中国関係のものは、1975年から3年間北京日本学研究センターの日本側主任教授(筑波大学教授退官後、明海大学に赴任前)として北京に夫婦で滞在した時に、あちこちで買い込んだもの。岳母が、製本術に凝っていて、帙がこわれると、これ幸いに手間を惜しまず補修していた。彼女は、和本のみならず西洋の革製本にも造詣が深く、なめし皮や材料を山ほど仕入れていた。それらは、台所の奥の彼女専用の部屋の上の棚に積み重ねられていたが、晩年にはほとんど使われず、かびて硬くなってしまい、旧宅の取り壊しの際に、捨てざるを得なかった。
さて、その父の書斎には、もともと特別な名前はなかったのだが、ある時私が思いついて、「泰北山房」と名付けた。屋敷の南側の庭には、泰山木とヒマラヤ杉、桜の樹が塀の上の電線の上まで伸びていて、泰山木は初夏になると、大きな白い花をつけた。その甘い香りが何とも言えず素敵で、そこから書斎の名をとったのだ。父や母もたいそう気に入って、ある時、その入り口に「泰北山房」の名札がかけられた。「山房」としたのは、父が若い頃から夏目漱石(とくに「夢十夜」)をとても気に入っており、漱石に関する著述もいくつかあったので、「漱石山房」から「山房」をいただくことにしたのだ。
その幾多の蔵書も、父の他界、旧宅の建て替えとともに、ほとんど整理されることなく、この書斎から去って行った。少数のものは、古書専門の競売にかかったが、多くはビニールひもでくくられ、トラックで運ばれていった。今、手元に残るのは、父自身の著作類、それから最後に目に留まったもの(段ボールで10箱くらい)にすぎない。
その僅かに残された旧蔵書のなかから、いくつか目に留まったものを少しずつ紹介していくことにする。それは、書誌学でも文献学の記述でもなく、父母の思い出の断片的なよすがにすぎないが、ご覧下さるみなさまの心に少しでも触れんことを祈っています。
(林四郎博士記念東京漢字文化教育研究所所長、2024・01・11)