蔵書点綴 第3回

『日本大辞典 ことはのいつみ(泉)』(落合直文著)
松岡 榮志

   
(第壹巻明治31年、大倉書店)

 本書の完成にあたって、その前書きである「緒言」の初めに、著者の落合直文は言う、  
 辞書編纂は、余の、はやくよりの志なり。明治廿一年のころ、有志者あつまりて、言語取調所を起こししが、余も、その設立者の一人となり、よろこびて、それに従事せしに、いくばくもなくして、かの取調所は、帝国大学のかたにうつされたり。されど、余は、余の志をつらぬかむとて、常に、言語の採集を怠りざりしが、明治廿七年の秋には、その草稿、三十余巻になれり。これ、この辞書の基となりしものなり。(句読点は、原文のまま)  
 さらに、明治21(1888)年9月1日には、辞書編纂員たちを集めてそれぞれ分担を決めて言語を採集し、一週間に一度会議を行って、各辞書の批評会や辞書の方法や体裁などを議論した。続けて言う、  
 編纂は、廿九年の秋、大かた、終へたり。その秋、出版せむとて、広告までせしが、をりしも、藤井乙男、草野清民二君の帝国大辞典、大和田建樹君の日本大辞典など、一時に、出で来れり。かかる時、しひて、世に出さむには、それらと競争するが如き嫌ありしかば、殊更に延期することとなれり。  
 明治29(1896)年の秋、本書は完成を見、広告まで打って、さあ販売という時に、競合他社の2冊(『帝国大辞典』と『日本大辞典』)が相次いで刊行され、延期を余儀なくされる。しかし、これは振り返ってみれば、語彙の選択、増補に力を注ぐことができたのだから、むしろ「幸福」であったと言う。
 さらに、この書の編纂にとって、一層忙しくなったのは、「日清戦争の一事なり。」と言う。これにより、「兵站部」やら「戦利品」などの、戦争にかかわる新語が続々と出現してきたのである。「このために、大いに、時日を要せり」ということで、明治三十一年六月にようやく刊行となった。その際、本来は池辺義象(いけべ・よしたか)、畠山健(はたけやま・たけし)との「合著」とするつもりであったが、結果的には落合直文の編著ということに落ち着いた。編纂員の中には、弟子の与謝野寛(鉄幹)などの名も見える。
 書名は、「ことはのいつみ」(ことばの泉)であるが、角(つの)書きとして「日本大辞典」とある通り、いわゆる国語辞典の枠を越えて、百科語にもかなりのページを割いている。公称20万語、堂々たる大辞典である。菊判の縦四段組、本文1533ページ。
 本辞典の特長は、語彙のみならず、「日本大辞典」と銘打つ如く、百科項目がかなり多いことである。例えば、「あ」の第1頁には、「ああむすとろんぐはう(アームストロング砲)」や「ああめん(【『英語』基督教にて、祈祷の終わりにとなふる語】)」、「あいかけ(【動物。魚の名。ぎぎをいふ。北国の方言】)」などが散見する。ちなみに、『帝国大辞典』は、硯友社を興して言文一致を提唱した山田美妙(1868-1910)が明治25~26年に刊行した『日本大辞書』(口語体で書かれた、最初の国語辞典)の版権を買い取り、その成果をふんだんに取り入れた「普通語」の国語辞典である。また、大和田『日本大辞典』の方は、百科項目をとらない、イロハ引きの国語辞典であった。(注:以上いずれも『日本辞書辞典』を参照)当時の読者にとっては、まだ「アイウエオ配列」より「イロハ引き」のほうが、なじみがよかったようだ。

     
(左『日本大辞典』、右『帝国大辞典』、いずれも国立国会図書館所蔵)

  * *
 さて、作者の落合直文(おちあい・なおぶみ、1861-1903)は、明治時代を代表する歌人、国文学者。原名を鮎貝盛光といい、仙台伊達家の重臣鮎貝盛房の次男として、宮城県気仙沼に生まれた。仙台の私塾、神道中教院に入り、漢学などを学んだ。13歳の年にそこの教師である国学者落合直亮の養子となり、落合姓となる。養父が、伊勢の神宮教院(現、皇學館大學)の教師に転任するのに同行し、そこで国史、国文学などを学ぶ。上で紹介した、『ことばの泉』の共著者にあたる(どうやら名前を載せるのを、本人たちが遠慮したらしいが)池辺義象、畠山健も同じく、神宮教院で学んだ親しい仲間たちであった。
 1881年、落合は上京し、二松学舎で少し学んだ後、翌年、池辺義象とともに東京大学文科大学古典講習科に第一期生として入学。だが、落合は2年後に徴兵され3年間軍務につき、大学を中退。(池辺は、86年に卒業し、90年に第一高等学校教授となる。)86年に名を「直文」と改める。軍務が明け、88年に皇典講習所(現、國學院大學)の教師となり、翌年から第一高等中学校(現、東京大学教養部)、東京専門学校(現、早稲田大学)などでも教鞭を執る。
 翌89年、森鴎外、小金井喜美子たちと新声社を結成。新体詩運動の中心となり、共訳詩集『於母影(おもかげ)』を刊行。のちに、新体詩「孝女白菊の墓」「桜井の訣別」などを発表。93年には、和歌の改革をめざして、浅香社を結成。与謝野鉄幹、尾上柴舟、大町桂月などが参集した。
 1903(明治36)年12月16日、肺疾患のため没す、享年42歳。本書の刊行から僅か5年後であった。
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 上で紹介した池辺義象は、のちにパリに留学し、帰国後京都帝国大学講師となった。畠山健は、神宮教院を卒業後、皇典講習所(現、國學院大學)で27年もの間教鞭を執った。(心理学者として著名な波多野勤子は、その娘)
 池辺は、落合と同じ年、畠山は3歳年上であったが、青年期に同じく神宮教院に入り、いわば同じ釜の飯を食べて、学問に励んだ。まさに、江戸時代後期の詩人であり、学者として知られた広瀬淡窓の「桂林荘雑詠 諸生に示す」詩に言う、
休道他郷多苦辛  道(い)うを休(や)めよ 他郷に苦辛多しと
同袍有友自相親  同袍 友有り 自ずから相(あい)親しむ
柴扉暁出霜如雪  柴扉 暁に出づれば 霜 雪の如し
君汲川流我拾薪  君は川流を汲め 我は薪を拾わん
 若き淡窓が、九州の大分日田に開いた私塾「桂林荘」。そこに集った若き塾生たちを励ますために作った四首のうちの一首。「他郷にやって来て、苦労やつらいことが多いと言うのはおやめなさい。一枚きりの掛布団に一緒にくるまって夜を過ごせば、自ずと友情もはぐくまれるはず。朝に粗末な門扉を押して出れば、霜がまるで降り積もった雪のよう。君は川に行って水を汲め、おれは山に薪を拾いに行くから。」
 まるで、若き日の落合たちの姿をみるようだ。
 この『ことばの泉 日本大辞典』は、まさに長年にわたる落合たち3人の強い絆の証しでもあり、若き友情の賜物でもあったといえよう。
(まつおか・えいじ、林四郎博士記念東京漢字文化教育研究所所長、2024・02・24)


林四郎博士記念東京漢字文化教育研究所

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