そのきっかけとなったのは、明治4年(1871)に「阿之部」が出された『語彙』(文部省編輯局)である。10年ほどして、明治14年に「伊之部」「宇之部」が続き、17年に「衣(え)之部」が出されて中断した、これは国家事業とでも呼ぶべきものであったが、どうやら編者の数が多すぎたため、未完に終わった。そこで、今度は誰か一人に任せようということで、明治8年(1875)文部省は大槻文彦(1847-1928)に編纂を命じた。10年後の明治17年に原稿が完成し、22年(1889)に私版として刊行された。はじめは4分冊、のちに1冊にまとめられたが、昭和になって増補され、大型国語辞典『大言海』(冨山房刊)となった。
その前年の明治21年には、本書の編者物集高見が、雅語中心の国語辞典『ことばのはやし』を刊行している。古語、雅語を中心に、約2万4000語を収録したもので、これを基にして、明治27年(1890)6月に、この『日本大辞林』が刊行された。
配列は、イロハではなく「アイウエオ」順で、本文3段組、1533頁。本人の序文の前に、伯爵松方正義の序文が付されている。本背革1709頁の大型本である。
著者の物集高見(1847-1928)は、開頭のページ下に「豊後 物集高見」と記す通り、大分県杵築(現杵築市)の出身。国学者であった物集高世(たかよ、1817-1883)の長男で、その子の物集高量(たかかず、1879-1985)も作家、国文学者。高見は、幼少時代に漢学、国学を学び、さらに長崎で蘭学を学んだ後、慶応2年に20歳で京都に出て玉松真弘(操)に師事し、国学を学ぶ。
江戸幕府が瓦解すると、明治2年に父と上京。復古神道の大成者であり、国学の泰斗であった平田篤胤(1776-1843)の養子であり、その後継者でもあった平田銕胤(ひらた・かねたね、1799-1860)の下で国学を治める。また、漢学や洋学も治め、教部省に勤めながら辞書編纂を企図する。明治19年(1886)、帝国大学教授に任じられ、23年には学習院大学部の教授も兼任する。32年には、日本で初の文学博士となるが、東京帝国大学文化大学学長であった井上哲次郎の勧告により、大学を退官。これより後は、在野の研究者として私財をなげうち、『広文庫』、『群書索引』、『皇学叢書』などの大部の類書、叢書を編纂、刊行するも、貧困のうちに昭和3年(1928)、自宅にて逝去。享年80歳。
その長男、高量は京都の第三高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部国史学科に入学するも、国史学には興味が持てず、卒業後は小説などを書き、また新聞社に就職したりするが、博打や女遊びに身を持ち崩し、巨額の借金を負う。大正4年(1915)父の高見が病気で倒れたため、『広文庫』、『群書索引』の編纂に協力する。浮き沈みの激しい人生であったが、長寿を全うし、106歳で逝去した。
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さて、明治20年代に国語辞典が陸続として編輯、出版されたことをどう考えたらいいのだろうか。本書の末尾に、宮内大臣子爵(当時、のち伯爵)土方久元(ひじかた・ひさもと、1833-1918)の「後序」が付されている。曰く、
凡そ文字の邦、字書非ざるは無し。字書は、猶お博物館のごときか。採蒐(集)愈いよ博ければ、資益愈いよ大なり。漢土其の著少なからず。康煕字典、最も大成と称す。実に芸苑の至宝たり。本邦も亦た字書無きには非ざるも、載す所は偏狭、概して歌人俳客の具たるに過ぎず。猶お一地方の展覧場のごときのみ。本省嚮に物集高見に命じて日本大辞林を編ましむ。今や竣(おわり)を告ぐ。採蒐頗る博く、殆ど彼の字典と駢び美なり。余将に之を帝国博物館に比せんとするなり。明治二十六年十二月 (原漢文、訓読筆者)
冒頭で言う、「凡そ文字の邦、字書非ざるは無し。」と。つまり、ひとかどの文明国にはそれにふさわしい「字書(辞書)」がなくてはならぬ、まさにこの思いが、土方や松方正義(本書の刊行に際して、多額の援助をしたとされる)をはじめ、明治維新の先頭に立った多くの政治家や文化人を突き動かしていたようだ。思えば、幕末の安政7年(1860)、幕府使節団の軍艦奉行木村摂津守の従者として咸臨丸に乗った福沢諭吉は、米国で『ウエブスター大辞典』の省略版を購入している。建国後100年を経ても、まだ南北統一がなされない中で、米国のアイデンティのよりどころとして、この辞書の果たした役割は大きい。これもまた、国家と辞書の強い絆の表れではあるが、むしろ蘭学から英学への移行を自身も強く感じていた福沢という人物の、先見の明とその即応性(身のこなしの軽やかさ?)に、舌を巻かざるを得ない。閑話休題、首相でありながら宮内大臣を兼任した初代の伊藤博文の後を継ぎ、土方は明治の元勲として、明治20年(1887)に宮内大臣となっている。この「後序」によれば、『日本大辞林』の扉に「宮内省蔵版」にあるがごとく、本書は宮内省が物集高見に命じて編纂させたものだ。明治という新たな時代を迎えた国家として、本格的な「帝室博物館」に匹敵する「字書」を編纂することは、国家的な使命とも考えられた。文部省に勤めていた大槻文彦もまた、上司であった西村茂樹に命じられ、『言海』(のちに『大言海』)の編纂に一生をかけることになったのである。
このように、いわば官民を問わず、文明開化の風を受けて、新しき時代には新しき「字書(辞書)」が必要だという気風が自ずと醸成された。「後序」でも言及されている『康煕字典』は、清王朝の威信を誇るべく、百科全書と呼ぶべき『四庫全書』と並んで、国家的大事業として編纂された。顧みれば、まさにその明治20年代初頭である20年(1887)に、我が国の英学者であり、教育者、事業家であった渡部温(1837-1898)による『標註訂正 康煕字典』(無尽蔵書房)が刊行されている。これは、幼い頃から漢学に親しんだ渡部が、独力で約5万字を数える『康煕字典』の見出し字、用例にすべて訓点、送り仮名、読みをつけたもので、大いに好評を博し、戦後には1977年に講談社から復刻された。これは、のちに陸続と刊行される漢和辞典、さらには『大漢和辞典』などの親字の解説や読みなどに大きな影響を与えている。これまでの辞書研究史ではあまり注目されていないが、この『標註訂正 康煕字典』の刊行も、明治20年代の字典編纂ブームの一つの現れであり、さらには以後に刊行される各種の漢和辞典編纂の先駆けであったとも言えよう。
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ところで、先に挙げた物集高見、高量父子によって編纂された『広文庫』全20巻も、岳父の書庫の奥に収蔵されていた。黄色い表紙の精装本で、『群書索引』や『群書類聚』とともに、ただならぬ風格を感じさせるものだった。それも、旧宅の取り壊しの際に、古書商にひもで縛られて運んで行かれた。売却されて、どこかの書架に収まっているのか、あるいはほかの多くの書物と同じく、古紙として溶解されてしまったか、今ではもう定かではない。
(まつおか・えいじ、林四郎博士記念東京漢字文化教育研究所所長、2024・04・06)