蔵書点綴 第6回

『聖書』三種
松岡 榮志

①『BIBLIA TESTAMENTS.』(Nederlandsche Bijbel-Companie, アムステルダム、オランダ、1878年)
②『引照 旧約全書』(北英国聖書聖書会社、横浜聖書館蔵版、明治22年、1889年)(秦川堂書店購入、5000円)
③『官話和合訳本 新旧約全書』(上海大英聖書公会印刷発行、上海、1924年)(北京中国書店購入、80元)

   
①(9×15cm、厚さ5.5cm、天、地、小口ともに天金)

   
②(14.5×21cm、厚さ4.8cm、1378頁)

   
③(15×21.3cm、厚さ4.8cm)

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 岳父林四郎がクリスチャンだったことは、意外と知られていない。
 その父林季樹(はやし・すえき)は、海軍大学を卒業後、縁あって林家に婿養子に来たのだが、茨城県の香取神社の神主の末っ子でもあったから、もちろん幼少期からキリスト教とはまったく縁はなかった。どうやら岳父は、その青年期に敗戦後の葛藤の中で、洗礼を受けたようだ。
 岳母のほうは、京都の綾部市の生まれで、10歳のころに親に連れられて札幌に移ったが、こちらは敬虔なクリスチャンであった。親族に、高倉徳太郎(1885-1934)という著名な牧師(『高倉徳太郎著作集』も刊行されている)もおり、またその母の初枝(徳太郎の腹違いの妹)もその父母から深い影響を受けて、幼いころから信仰に目覚めていた。
 岳父は、昭和18年東京帝国大学文学部に在学中、学徒出陣で陸軍に入隊し、関東の各地を転々としているうち、敗戦を迎えた。本人の話によれば、軍隊とはまったく無責任なもので、天皇の敗戦の玉音放送を聞くと、上官たちも呆然自失してしまい、なんの指令もなく勝手に解散してしまったとか。翌日、彼も何も持たずに部隊を離れ、徒歩で一日かけて歩き続け、何とか家に戻った。そして、当時の多くの青年たちがそうであったように、魂の救済を求め、巣鴨にあるキリスト教会を訪ねた。そこでたまたま知り合ったある青年(小笠原真、岳母の兄)と親しくなり、ある日「札幌のオレの家に、一度遊びに来ないか」と誘われ、何とはなしに上野駅から青森行きの列車に乗った。あちらには有り余るほどの食料があると聞き、強く惹かれるものがあったからだ。何しろ、内地は極端な食糧難であった。青函連絡船を降りると、あの青年が待合室のベンチで手を振っているのが見えた。さらに電車を乗り継いで、札幌駅前の時計台のすぐ横にある、小笠原商店にたどり着いた。この店は、岳母の父小笠原寛が開いた大きな文房具店で、祖父の楠弥は札幌市議会の議長まで勤めた有力者であった。
 東京からはるばるやって来た、この東京帝大生(昭和22年9月復学)のハンサムな好青年は、一家を挙げての歓待を受けた。栄養失調でやせ細っていた青年は、濃厚な牛乳を一口飲むと、すぐに腹を下してしまったとか。ジンギスカン鍋やパン、チーズ、ジャガイモなどの美味佳肴に目を輝かせ、ついつい長居をすることになり、ほどなく真(まこと)の妹の恵美と恋に落ち、結婚の約束をした。
 東京に戻ると、岳父はさっそく大学に卒業論文を出し、9月に東京帝大を卒業した。その頃は、紙も極めて不足していたので、ざら紙の粗末な原稿用紙にGペンを使い、青のインクで破らないように注意深く書きすすめた。上下2冊、ひもでとじて提出した。タイトルは、「「み」考――形容詞語幹に「み」のついた形に就いての研究」(上、下2巻、全368頁)。古典を対象とした研究であるが、のちの現代日本語研究につながる論文だった。

 

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 東京帝大を卒業した岳父は、折からの就職難の中、母校の早稲田中学、高校に何とか新任国語教師として職を得た。新婚の二人は、恵美の母や弟たちが住んでいた三軒茶屋の家に仮住まいをしていたが、間もなく勤め先の学校の中に小さな部屋をもらい、幼い長女を連れて住んだ。若い学生たちを相手にした国語教師の生活は、思いのほか楽しく、古典文法のこなし方や世界名著案内をガリ版刷りで作り、生徒たちに配布したりもした。だが数年後、組合活動にのめり込み、免職の憂き目にあうと、そこを離れ、高田馬場にある実家に身を寄せた。まもなく長兄の健太郎の斡旋で、短期間に終わった社会党片山内閣が新たに作った国立国語研究所に、研究員として何とか職を得た。
 ようやく安住の地を得た夫妻は、日曜になると幼い娘を連れて、巣鴨教会などに出かけた。特に、敬虔なクリスチャンである岳母は、礼拝のみならず奉仕活動にも精を出した。父の方は、後に目白にあった『新約聖書』の口語訳の研究会に誘われ、その完成に力を尽くした。岳父の現代日本語に対する研究の源は、大学での学習よりも、早稲田中学での国語の授業(やその教材作成)と『新約聖書』の口語訳の仕事があったと見てよい。のちに、国立国語研究所で共同研究や『言語生活』(筑摩書房)の編集の仕事によって、もともと古典文学の研究者として出発した岳父は、やがて現代日本語の研究者となり、ついには『例解新国語辞典』(三省堂)という中学生を対象にした画期的な国語辞典を編纂することになったのである。
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 さて、今回紹介する聖書3冊は、その岳父母が所蔵していたものである。①は、もともとドイツ語版だと思っていたが、よく見るとオランダ語版のようである。刊行されたのは、首都アムステルダムで、旧約(OUDEN TESTAMENTS.)と新約(NIEWEN TESTAMENTS.)の部分が収められている。実は、他にも大型版の立派な聖書(英語版、ドイツ語版)が数冊あったのだが、旧宅の取り壊しの時に、他の本を整理しに来た古本屋に頼んで、古書市で処分してもらった。(多分、購入した時の何十分の一以下の値でどこかに買われていったのだろう。)これは、何とか手のひらに乗るくらいの小型版であったのと、装幀が見事だったので、処分しないで取り置いておいたものだ。(小型の割には、ズシリと重く、計ってみたら640gあった)今から150年ほど前のもので、1887年(日本の明治11年)に刊行されている。岳母は、『聖書』であれば何でも手元に置きたがったが、洋本や和本の装丁を趣味にしていたので、この本の場合には装丁も特に気に入って求めたのだろう。ただ、これがどこで購入されたのかは、定かでない。岳父母はアムステルダムには、何度か足を運んでいる(そのうち一度は、30年ほど前に私たち家族5人と一緒に出かけた)が、そこで購入したものかどうかも不明だ。上にあげた大型版の聖書には、神田の「崇文荘書店」で購入した短冊や印が押されていたので、古書展や書店で直接購入した可能性もある。装丁は青い革製で、天、地と小口が、天金仕上げの見事な仕上がりである。いくつかのページの中には、何本かの美しいクジャクの羽、四葉のクローバーの押し花、当時の新聞の切り抜きなどがはさみ込まれている。持ち主が、いかに大事にしていたかが窺われよう。中扉には、旧所蔵者の名前らしき筆記体のサインがあるが、オランダ語らしく、残念ながらよくわからない。『旧約聖書』と『新約聖書』の部分の外、「PSALM」(讃美歌)が楽譜とともに132篇、その後に「catechisumus」(解説)も付されている。あるいは、神父や牧師が愛用したものかも知れない。
 ②は、横浜で印刷、刊行された『引照 旧約全書』である。これは、購入先がはっきりしている。中に、神田神保町の古書商「秦川堂書店 永森譲」の短冊「北英(国がヌケ)聖書公社 旧約全書 金五千円」が入っている。(ただ、いつ購入されたのかは定かではない。)裏表紙には、刊行時のものとおぼしき「定価六拾銭」の朱印が押されているので、明治22年の刊行時のもとの値段は、一般の庶民にはやや高価なものだったろう。(当時の金額の換算については、いろいろな説があるが、おおむね現在の3000円くらいか)のちに古書として購入したのだが、すでに表紙の皮革がだいぶ古びており、外装は全体的に少し傷んでいるが、中は大丈夫なので、おそらく岳母がいずれ製本直しをしようとして手に入れたのだろう。表扉には、上部に丸い朱印が押してある。中央に、「横浜聖書館蔵版」とあり、周りに「YOKOHAMA 横浜四十二番 BIBLE(HO)USE 42」と彫られている。同じく明治22年に、横浜聖書館で印刷、刊行されたものは、横浜開港資料館にも同年発行の『新約全書』があるらしい(未見)。「北英国聖書公社」とは、スコットンランド聖書協会のことで、明治8年に横浜に日本支社が開かれている。(まさに居留地の42号)この「文語訳聖書」は、ヘボン博士たちによって明治7年(1874)に作業が開始され、明治20年(1887)が完成し、すぐに印刷発行に付された。その発行量は定かでないが、それぞれの所蔵者が長年大事にしていたようで、現在でも古書目録にはいくつか散見される。(本書と全く同じものが、本郷の琳瑯閣書店の目録にも掲載されている)
 ③は、1924年に上海大英聖書公会から印刷、発行された中国語版の『新、旧約全書』である。この「官話和合訳本」とは、Union Version Chinese Bibleの意味で、1919年に最初に刊行された。その後100年以上にわたって印刷刊行され、世界で最も読まれた白話文(口語文)の訳本とされる。1939年には、「国語運動」の高まりとともに、『国語合訳本』と改名された。本書は、まさに辛亥革命後の新文化運動、白話文運動の進展と軌を一にし、中国白話文の普及と発展に大きな影響を与えたとされる。
 この本を手に入れたのは、岳父母が1985年から3年間滞在していた北京の古書店街琉璃廠リューリチャンにある、中国書店(後扉に印あり)である。岳父は、北京外国語学院(のちに大学)に置かれた北京日本学研究センターの日本側主任教授として、1985年から3年間北京友誼賓館(長期滞在の外国人専門家専用ホテル)に住んだ。二人は、土日などにはしばしば北京の城南にある古書店街に出かけ、栄宝斎などの文房具店、書画骨董店が軒を連ねる琉璃廠リューリチャンの通りを散策するのが楽しみだった。(2年目の1年間は、私たち家族も一緒に住んだので、時にはみんなで出かけた。)前回で紹介した『漢和大字典』なども、そこで手に入れたのだろう。岳父も無類の古書好き、岳母は古書の装丁を趣味としていたから、気に入ったものがあると抱えきれないほどの本や文房具を買い入れては、待たせていたタクシーでホテルにもどるのが常だった。初代の主任教授であった岳父には、実は専用車(専用運転手付き)があったのだが、それを使うのを好まず、いつもホテルのタクシーを使った。ただ、まだその頃はタクシーが少なく、住んでいた北京友誼賓館の「調度室」(当時、タクシーの手配をする受付や、運転手の休憩するための建物をそう呼んでいた)で前もって予約し、半日もしくは一日「包車パオチャー(貸し切り)」しなくてはならなかった。本書を手に入れた中国書店は、そのころ「旧書」(古本)を扱っている北京では最も大きな古書店で、後に「海王村書店」と改名した(「海王村」は、ここの旧地名)。80年代には、主に洋装本の古書が雑然と積まれていた。1976年に終わったばかりの文化大革命の余波で、まだ古書がゴミ同然に扱われ、手に取る人も外国人以外は少なかった。私自身は、1979年に初めて北京に足を踏み入れて以来、毎年北京に出かけるたびに必ず琉璃廠に出かけ、収蔵印の押された珍しい本を何冊も安価で手に入れた。すでに40数年前のことだが、その後「拍売」(オークション)が盛んになって、本の値段も急騰し、もう遠い過去の物語――わが「城南旧事」、になってしまった。
(まつおか・えいじ、林四郎博士記念東京漢字文化教育研究所所長、2024・05・05)


林四郎博士記念東京漢字文化教育研究所

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